Joseph Conrad年譜


1857年
 本名ヨーゼフ・テオドル・コンラート・ナウェンチュ・コジェニョフスキJozef Teodor Konrad Nalecz Korzeniowski。12月3日、帝政ロシア治下のウクライナ、ポドリア県ベルディチェフに地主貴族の父アポロ、母エヴァの一人息子として生まれる。

1859年(2歳)
 ジトミールに転居、父アポロは文学グループに加わる。

1861年(4歳)
 父アポロ、ワルシャワに赴き、ポーランド独立地下運動に身を投じる。秋に妻子を呼び寄せるが、10月、ロシア官憲に捕えられ7カ月間投獄される。

1862年(5歳)
 5月8日、父母とともにモスクワの北東約500キロのヴォログダに流刑される。翌年夏、母の肺結核悪化のため南ロシアの流刑地チュルニショフに移される。

1865年(8歳)
 1月、母の兄タデウスが見舞に来る。6月6日、母エヴァが32歳の若さで死去。父も結核に感染。

1866年(9歳)
 5月、母を失ったコンラッドは、伯父のもとで生活。

1869年(11歳)
 2月、コンラッド父子、クラクフに戻る。5月23日、父アポロも結核で死去。孤児となったコンラッドは、母方の伯父タデウス・ポプロフスキイと祖母テオフィラの保護のもとに教育される。学校寄宿舎にも入ったが、病弱のため正規の教育年限を終了できなかった。

1872年(15歳)
 この頃より船員になりたいという意向を示しはじめ、伯父タデウスを驚かせる。

1873年(16歳)
 5月、スイスと北イタリアに3カ月の長期滞在。初めて海を見る。

1874年(17歳)
 9月、伯父タデウスを説得して、フランス商船隊に入る許可を得る。10月14日、クラクフの伯父の元を離れマルセイユヘ出発。

1875年(18歳)
 モンブラン号に乗り組み、マルチニーク諸島へ航海。

1876-1877 年(19-20歳)
 76年7月から77年2月にかけてサンタントワーヌ号にて西インド諸島へ航海。77年、トレモリーノ号に乗り組みスペイン内戦に絡んで武器密輸に関わる。浪費により多額の借金を背負いこむ。

1878年(21歳)
 2月、失恋と借金の圧迫から拳銃自殺を計るが未遂に終り、伯父タデウスがマルセイユに来て、コンラッドの窮状を救う。4月24、イギリス船メイヴィス号に乗りマルセイユを離れる。6月18日イギリスのロウストフト港につき、イギリスの土に第一歩をしるした。10月、デューク・オブ・サザランド号の水夫としてシドニーに向け出帆。

1879年(22歳)
 秋、ロンドンに帰港。ヨーロッパ号に乗り組む。

1880年(23歳)
 1月、ロンドンに戻る。6月、二等航海士の免状を取得する。8月、二等航海士としてシドニーへ出帆。

1881年(24歳)
 パレスタイン号に二等航海士として乗り組む。この航海(83年3月までつづく)で、のちに作品の舞台としてしばしば取り上げられる東方の世界にはじめて接する。

1884年(27歳)
 12月、一等航海士の試験に合格。その後、シンガポール、カルカッタ等航路につく。

1886年(29歳)
 8月、イギリスに帰化が許可される。11月、船員最終試験に合格。船長資格を取得する。

1887年(30歳)
 『台風』の船長として描かれるジョン・マックファーが指揮する、ハイランド・フォレスト号に一等航海士として乗り組み、ついでヴィダル号に移り、マライの島々をめぐる。

1888年(31歳)
 1月、シンガポールでヴィダル号を下船。メリタ号でバンコクへ。3月、オターゴ号の船長となり、シドニーに向かい、5月、シドニー着。8月、シドニーを出港、バンコックからメルボルンヘ向かう。このころ後の多数作品のもととなる体験を積む。

1889年(32歳)
 夏、イギリスに帰国。ロンドンで処女作『オルメイヤーの阿呆宮』Almayer’s Follyを書き始める。

1890年(33歳)
 74年に離れて後初めてのポーランド旅行。5月、ベルギー船籍の河蒸気船に乗るため、ボルドーからフランス船でアフリカのボマに向かう。6月13日、ボマを経て、マタディに着く。そこからさらに徒歩で、コンゴ河上流キンシャサに向かい、8月上旬に到着したが、指揮するはずのフロリダ号は大破して使用にたえず、やむなくルフ・デ・ベルジェ号に乗り組みコンゴ河を湖航する。

1891年(34歳)
 健康を害してヨーロッパにもどる。ロンドン、ジュネーヴ付近で療養生活。『オルメイヤーの阿呆宮』を八章まで書きあげる。療養後から1893年7月までトレンズ号にて航海。ゴールズワージイと知り合い生涯の友となる。

1894年(37歳)
 1月14日、アドワ号を降り、船員生活と決別。1月29日、伯父タデウス死去。

1895年(38歳)
 4月、処女作『オルメイヤーの阿呆宮』をジョウゼフ・コンラッドの筆名で出版。『島のあぶれ者』An 0utcast of the Islands完成、翌96年出版。

1896年(39歳)
 3月24日、ジェシイ・ジョージと結婚。

1897年(40歳)
 2月、『ナーシサス号の黒人』The Nigger of the "Narcissus"完成、12月、出版。旅行作家R. B. カニンガム=グレアムと知り合う。

1898年(41歳)
 1月14日、長男ボリス誕生。5〜6月『青春』Youthを執筆。10月、ケント州ペント・ファームに移る。近くにヘンリー・ジェイムズ、キプリング、ウェルズ等が住んでいた。短編集『不安の物語』Tales of Unrestを出版。

1899年(42歳)
 1〜2月、『闇の奥』Heart of Darkness執筆。10月、『ロード・ジム』Lord Jimが「ブラック・ウッド」誌に連載。

1900年(43歳)
 7月、『ロード・ジム』完成、出版。

1901年(44歳)
 1月、『台風』Typhoon完成、翌年出版。F.M.フォードとの共作で『相続者』The Inheritorsを執筆。

1902年(45歳)
 『青春』、『闇の奥』、『行詰り』出版。

1903年(46歳)
 1月、『ノストローモ』Nostmmo執筆開始。F.M.フォードとの共作で『ロマンス』Romanceを出版。

1904年(47歳)
 9月、『ノストローモ』完成、出版。

1906年(49歳)
 2月、南仏に滞在する。8月2日、次男ジョン誕生。海のスケッチ集『海の鏡』The Mirror of the Sea完成、出版。『密偵』The Secret Agent完成。

1907年(50歳)
 9月、子供が病気になり帰国。『密偵』出版。

1908年(51歳)
 『西欧の眼の下に』Under Western Eyesに着手。

1909年(52歳)
 『6つの短編』A Set of Sixを出版。11月、『秘密の共有者』The Secret Sharer完成。

1910年(53歳)
 1月、『西欧の眼の下に』完成。6月、ケント州カペル・ハウスに転居。病に苦しむ。

1911年(54歳)
 『西欧の眼の下に』出版。

1912年(53歳)
 『陸と海のあいだ』Twixt Land and Sea出版。

1914年(57歳)
 『チャンス』Chance出版(12年完成)。『勝利』Victory完成。7月、ポーランドに旅行。ザコパネに滞在中戦争が始まり、11月3日ようやくイギリスに帰宅。

1915年(58歳)
 『陰影線』The Shadow-Line完成。『勝利』出版。『潮流の中で』Within the Tides出版。

1916年(59歳)
 長男ボリス、フランス前線に出征。

1917年(60歳)
 『陰影線』出版。自作選集のための序文を書く。

1918年(61歳)
 長男ボリス、毒ガス攻撃により負傷し、入院。

1919年(62歳)
 『黄金の矢』The Arrow of Gold出版。『救助』The Rescue完成、翌年出版。カンタベリーに近いビショップボーンのオズワルドに転居。

1920年(63歳)
 望郷の念がつのる。

1921年(64歳)
 コルシカを旅行。『生活の記と手紙』Notes on Life and Letters出版。

1923年(66歳)
 4月、アメリカ合衆国に行き、6月、帰国、『海の放浪者』出版。

1924年(66歳)
 5月、ナイト爵の叙勲を辞退する。8月3日朝オズワルドの自邸で心臓発作のため急逝、カンタベリーに埋葬される。

1925年
 『サスペンス』Suspense(未完)出版。

1926年
 『最後のエッセイ』Last Essays出版。

1928年
 『姉妹』The Sisters (1896年作・未完) 出版。

 

集英社版世界文学全集コンラッド『西欧の眼の下に他』巻末の年譜をもとに加筆して作成しました。



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